説教要約(7月)

2023年7月30日(日)  説教題:「つまづきの石」    聖書;ローマの信徒への手紙9章30~10章4節
 人間が努力や決意によって精進した結果、神様から救われるという考え方をパウロここで「つまずきの石」と表現しています。神様を信じて歩んでいこうと意気込んでいるにも関わらず、そこでつまずいてしまう。動けなくなってしまう。そんな妨げになってしまうのが「つまづきの石」です。
 3031節ではイスラエルの民と異邦人とが対照的に書かれています。イスラエルは得られず、異邦人が得られたもの。それは「義、しかも信仰による義」だと言われています。「義」とは「正しさ」という意味ですが、人間の倫理や道徳によって判断する「正しさ」とは違います。これは神様の目による正しさです。この「義を得る」とは神様に喜ばれることを意味します。パウロによってキリストの福音を告げられた異邦人は受け入れました。しかし多くのユダヤ人は律法を守ることに囚われこだわっていました。神様に喜ばれることが見えなくなってしまっています。律法を守るという努力によって救われると思っていました。しかしそれは「正しい認識」ではありません。熱心に神様に仕えることがあっても、その方向が間違えてしまっていました。それが3節にある「自分の義を求めようとして、神の義に従わなかった」状態です。人間の決意や精進によって神様を信じても、それは自分の正しさを追い求める行為です。そのような自分の力を求めた先には、限界しか待っていません。2節に書かれている「正しい認識」が必要です。キリストの出来事によって、ただ赦されて、ただ神様の憐みによって私たちは愛されている。神様が私たちを愛して恵みによって救いを与えてくれる。これに出せる交換条件を人間は持っていません。持ちえないと言っても良いでしょう。神様がただ一方的に愛してくれて赦され、救われている。キリストの出来事以降に聖書によって示されているこの「正しい認識」が、「信じる者全てに義をもたら」します。
 そのためには「つまずき」が必要です。私たちは自分の力を信じます。自分の力によって満たされて、人間の力によって救われようとします。しかし、その努力は「正しい認識に基づくものではありません。」その神様の正しさに導かれていくために、神様はつまずきの石を置かれました。この石につまずいて、力や努力に頼る自分が打ち砕かれるために。プライドや地位、立場がつまずきによって壊されていくために。神様は私たちの生きる道につまずきの石を置かれたのです。

2023年7月23日(日)  説教題:「うめきながら」    聖書;ローマの信徒への手紙8章18~25節
 今日の聖書のポイントとなる言葉は「呻き」です。これは声にならない苦しみの叫びです。声にならない分、人の呻きは他者から気付かれにくくなります。家庭や職場、学校や友達との間。じつは私たちが気付いてないだけで、呻いている人は傍にいるかもしれません。それは他者だけではなく、自分自身でもそうかもしれません。自分が本当は苦しいのに、それを自覚することができない。呻いている誰か。呻いている自分。私たちが気付くことは難しいけれども、確実にそこにある苦しみ。それが「呻き」なのです。
 呻いている私たちには、その苦しみに対して霊の初穂が与えられています。この聖霊というものは、目に見えないものです。他の苦しみでしたら、目に見えるものの方が助けとなることもあるでしょう。あるいは誰か他の人に助けてもらうこともできるかもしれません。しかし「呻く」ことは自分でも他者でも気付きにくいものです。私たちの声にならない呻き。その見えにくいものに気付いてくれるのは、見えないものです。目には見えない聖霊、つまりはキリストが私たち人間の呻きに気付いてくれます。私たちが「心の中でうめきながら待ち望んでいること」とは、このキリストが一緒にいて共に苦しんでくれることです。呻きの中には共にイエス様がいます。苦しみの中には共に苦しんでくれているイエス様がいます。私たちはいろんなものを頼りにしていきますが、結局のところ呻きを聞き届けてくれるのはイエス様です。呻く私たちに示された希望。それは私たちと共にいて導いてくれるイエス様なのです。
 呻きながら生きる私たちには、イエス様が一緒にいます。その希望に気付く栄光の時が私たちには用意されています。「それに気付く」ということは、誰かの口で言われて聞くだけではありません。この聖書に書かれていることが、自分のことだと神様によって示されていく出来事です。そのために「霊の初穂」が与えられました。初穂を通して私たちと共に苦しんでくれる人がいることが示されています。これは「栄光」と呼ぶにはあまりにも暗くて、苦しい事実です。しかしながら、呻きながら歩んでいく私たちには、なくてはならないものです。呻きながら待ち望む私たちに示された希望です。この希望に望みをおきながら、待ち望んでまいりましょう。


2023年7月16日(日)  説教題:「弱さと共に」    聖書;ローマの信徒への手紙8章1~11節
 肉の弱さを持つ人間が、霊によって生きるようになることが聖書によって教えられていました。「肉」とは肉体から生まれてくるものの全てです。「霊によって生きる」とは「霊の法則」によって生きることです。ここでの「法則」という言葉には「自分を支配する力」という意味があります。罪と死を招く肉に支配されている私たちが、解放されて「霊」の支配を受けるということです。そして「霊」とはキリストが約束して与えられた「聖霊」です。聖霊は地上に人間としていることのできないキリストの代わりに与えられました。つまり霊の法則は、イエス様の法則です。この世の力ではなく、イエス様の支配へと入ることを現わしています。
 霊の法則に従う歩みは、このイエス様の道を想い起こして歩んでいく道です。そしてそれが「霊の思い」、つまりはイエス様の思いを実現させます。霊の思いは6節にありますように「命と平和」です。自分たちの命と他者の命。これらが尊重されていく平和が「霊の思い」であり、イエス様が歩んだ道です。しかし私たちの世界には差別があります。これは「命と平和」から最も遠いものです。
 それは教会やキリスト者であっても同じことです。むしろイエス様の生きた時代のことを思えば、宗教者の方が立場や生まれた場所によって人を排除していました。それを非難するイエス様を十字架につけて葬り去ろうとしました。どうしても私たちの心の奥底には人を虐げる罪が巣くっています。生まれた場所や肌の色、性自認、考え方など多くの違いがある私たちですが、この違いを受け入れるよりも、その違いによって排除する方向へと進んでしまいます。それが肉なる者として生まれた私たちです。差別をなくしたいと願いながらも、差別する自分。これはどうあっても逃げることができない、目を背けても迫ってくる罪です。
 しかしながら、私たちに与えられている霊を備えたキリストは、この肉の支配に負ける弱い人間よりも確かな強さを示してくれました。肉の支配に歩む人間は霊をもたらすキリストを排除しようとして十字架につけました。それでもキリストは排除されませんでした。十字架で死んで三日後に復活を果たします。十字架はキリストによって赦しと復活が私たち人間に示された出来事です。それだけではなく今日の聖書の文脈から見ていくならば、肉の法則に霊の法則が優った出来事になります。肉の法則は排除し差別します。都合の悪い事実や命を闇に葬ろうとします。ですが霊はその肉の法則によって排除されません。復活します。私たち人間の弱さに屈することなく、肉の法則の中で復活という霊の法則、命と平和を実現する道を示してくれました。排除する者たちの中にあって、それよりも命と平和が優ることをキリストは示してくれたのです。


2023年7月9日(日)  説教題:「なんと惨めな人間」    聖書;ローマの信徒への手紙7章13~25節
 パウロはキリストの死に与かることによって、律法から解放されることを語りました。それを知った彼は自らのことを「なんと惨めな人間なのでしょうか」と嘆いています。律法から解放されるということは、その罪が取り去られて正しく善いものになるということではありません。20節にありますように「わたしの中に住んでいる罪」に気付かされることです。これは律法を信じていたパウロに与えられた気付きですが、私たちも同じです。イエス様を救い主と信じて救われることは、もちろん素晴らしいことです。それと同時に、自分が罪のとりこでしかない現実を知ることでもあります。パウロはそれを知って嘆きました。自らが惨めで罪深い人間でしかない現実を知り、その罪を嘆いたのです。

 
私たちもイエス様と出会わなければ、この世界にいる多くの人たちと同じように、権威や財産、あるいは軍事力などの力に頼って生きていれば良かったわけです。神様のみ心など気にせず、好き勝手に生きて何も問題ありませんでした。もしかしたら、神様の存在なんか知らずに生きていった方が楽だったかもしれません。でもこの世の力よりも神様というもっと大きな存在がいることに気付いてしまいました。世の力の支配ではなく、神様の支配によって救われるように導かれてしまいました。そしてこの世の力に頼る罪深さと、そこにいる惨めな人間でしかない自分を知りました。このパウロの嘆きは、同じようにキリストによって救われた私たちの嘆きです。これを知った私たちは惨めです。パウロがここで嘆いたように、私たちも惨めな人間の一人なのです。
 これはキリストと出会わなければ感じることはないものでした。じゃあイエス様と出会わない方が良かったのか。そうではありません。私たちがどれだけ惨めで弱い人間だろうと、キリストは見つけて救い出してくださいました。神様が目を留めて導いてくれました。この惨めな人間である事実は変えようもありません。ですが、私たちは惨めだからこそ救われています。私たちは惨めだからこそ、キリストに赦されています。

 世の力に従う方が楽かもしれません。それを頼りにした方が心強いかもしれません。しかし、そこに救いはありません。私たちを見つけて救いへと導くのはイエス様です。私たちを救いへと招くのは神様です。これによって救われる。これによって明日もまた生きていける。キリストによって備えられた、惨めな者たちへの救いが、ここに確かにあるのです